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「この世界の片隅で」を見る2017/01/23

先日、川越スカラ座で「この世界の片隅で」を見た。アニメだからできる「絵」としての画像と全体を貫くリアリティが素晴らしい。全てを奪っていく戦争。そして傷つきながらも生きるものというか生き残ったものの希望を予感させてくれる。

 

ここに描かれる生活を実感を持って見られるのは私くらいの年代までだろうか。なにしろ主人公のすずさんは私の母の一つ下になるらしいから。私はもちろん生まれてもいないが、小学生くらいまではまだ街に行けば傷痍軍人がそこかしこにいたし、戦争の影が少しは感じられた。

 

熊本にも何度か空襲はあって、市街地面積の30%が焼け、 被災者4万7598人、死者617人、負傷1,317人、行方不明13人と記録される。叔母、母の妹が編隊を離れたグラマンにあぜ道で機銃掃射を受けすんでのところで難を逃れたと話してくれたのはそんなに昔ではない。母は雲仙岳の向こうに長崎のきのこ雲を見たという。昨年の秋からは帰省の折はボイスレコーダーを持って行くようにしている。少しずつ母の話を聞いておこうと思っているからだ。

訃報 太田拓美2017/01/09

拓美ちゃんが死んでた。花げし舎のホームページを覗いていたら「さよなら、太田拓美さん!」などと書いてあるじゃないか。なんだよこれ。知らないよ。聞いてないよ。すぐに久田恵さんに電話すると昨年10月自宅で発見されたときはすでに亡くなっていたと...。点鬼簿に書き加えるにはあまりにも早くないか。

昨年4月、私が熊本から帰った3日後、銀座のギャラリー悠玄での個展で「光のサーカス シルク・ルミエール」アコーディオンを伴奏にした影絵が地震にくたびれた私の心身にしみいるようだった。これからはこういうアナログな表現こそ求められるなどと話もたし、5月の末には私のアトリエにも来てくれた。ご母堂が亡くなったのが少し辛そうだったがこの年齢でお互いの生活の中まで立ち入って話したりはしなかった。

   

太田拓美。出会ったのは1973年4月神田神保町の美学校。彼はすでに人形劇団ひとみ座で人形美術をやっていたので、私のような浮ついた遅れてきた反抗期みたいな軽薄さは全くなく、年長、痩身長躯のそのひょうひょうとした物腰がすでに自分の世界を持っているように見えてそしてそれは確かにずっと変わらなかった。人形劇の世界から、陶人形、切り絵、イラストレーション、影絵と自在に表現してきてこれからさらにその世界を深めていくはずだった。

                   ただただその冥福を祈るほかはない。合掌。

   

HOMMAGE A TAKUMI OHTA スライドショー                                 https://www.youtube.com/watch?v=t2rSjxyNstw

   

太田拓美フェイスブック           https://www.facebook.com/takumi.ota.50

   

花げし舎のブログ

https://hanagesisha.jimdo.com/2016/12/26/%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%AB%E4%BA%BA%E5%BD%A2%E5%8A%87-%E5%A4%89%E8%BA%AB-%E5%85%AC%E6%BC%94-%E7%B5%82%E4%BA%86-%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6-%E3%81%95%E3%82%88%E3%81%AA%E3%82%89%E5%A4%AA%E7%94%B0%E6%8B%93%E7%BE%8E%E3%81%95%E3%82%93/

   

Puppet Houseのブログ           http://puppet-house.com/blog/?p=1560

   

私のブログでの過去の記事        http://dek.asablo.jp/blog/2007/07/03/                                  http://dek.asablo.jp/blog/2010/06/18/

熊本地震遭遇記 その後2016/12/31

 その後、福岡で休養して資材をそろえては二度熊本へ往復する。粗大ごみ、不燃ごみの山を集積所に運ぶ。強風で屋根のシートが剥がれ張り直したり、タンスや棚の類を徹底的に固定し、壊れた照明器具を付け直す。水回りの緩んだ水栓やふろ場の割れたタイル目地の補修などなど。一応生活に支障のないレベルは取り戻せたか。母も一人で大丈夫だというので、4月27日埼玉に戻った。

 それから5月末から1週間。8月には工具類を積んでフェリーで行って10日間、この時は倒壊した墓所を2か所、クレーン車を借りて直した。いつも頼んでいる石屋さんが作業場も自宅も全壊で動けないというので、石の仕事は専門なので自分でやることにして一人でも何とかなったのだが折からの猛暑で炎天下での作業環境は最悪だった。倒壊しないように墓石の中心に直径2cmほどの穴をあけステンレスの棒を差し耐震シール材で止めていく。結局石塔で八基ほどを建て直した。おまけで墓参りに来た母方の祖父を知るという方にうちの灯篭の笠も直してくれないかと云われ、これもご縁ですからと直して差し上げた。この辺はよろず承りますのものつくりの強みなのだ。

 しかし暑かった。私も刈り払い機で畑の草刈をしたが6,7月を放置して腰より高く生い茂る夏草に苦戦。地震からまだ4カ月にもならない、みんな休む余裕もないのか、日陰もない路肩の草刈をしている人たちや、屋根の上の瓦職の人たちを見かけると本当に事故のないように、熱中症を侮らないでとわが身も合わせて祈るしかない。それから9月末、11月半ばと通っている。屋根はまだ職人の手が回らずブルーシートが傷んできたので耐候性のあるシルバーのシートに替えた。

 これがざっと4月14日の前震から今に至る経緯である。全く私的な覚書のようなもので特別なものは何もない。私の母の場合、家の損傷が大きくなく、九十を超える高齢の一人暮らしにも係わらず重い持病もなく、ほんとうにたまたま私が居合わせ、しかも隣県に一時避難が可能な親族がおり、おまけに私が時間の融通がきく大工も石工も兼ねた暇な自営業だったという幸運が重なったので、こうしてのんきな話を綴っていられるだけなのだ。どれか一つの条件が欠けただけでもたぶん二週間後にはだいたい元の生活に戻れましたなどと報告はできなかっただろう。私が個人的に知る人だけでも住めなくなった全壊した家が五軒を数える。

 このような災害がもたらすものは個人、家族によって想像をはるかに超える違い、差異がある。被災の程度、身体の状態、年齢、性別、住居、仕事、経済、血縁者や友人の有無、避難先の有無...etc.etc. だからほとんどの私的レベルの問題は一般化して語ると何かがこぼれ落ちる。それだけに行政などの対応も手探りでその混乱を一方的に責めることはできないだろう。それでも阪神淡路大震災から中越地震、東日本大震災を経て蓄積されてきたものは行政にも、民間にも確かにあって大きな混乱はなかったように思う。また丁寧にこぼれ落ちるものを拾い集めできる限りの手当てをし、いつ来るとも知れぬ次の災厄に生かし備えねばならないのだ。

 その後も熊本の余震もあるが鳥取地震があり、福島県沖、茨城県北部など地震が続いている。話題にならないがトカラ列島近海でもずっと揺れが続いている。この国に住む限り被災地への支援を考えることはもちろんだが、どこにいても自身が被災者になる可能性を忘れずに備えておくことが必要だろう。

 震源地、震度のデータや地殻変動のデータなども整理しておこうと思ったのだが、最近出た本なども目を通してから改めてということにする。

※これまでの記事は右の熊本地震のカテゴリーからご覧ください。

江戸糸あやつり人形芝居を見る2016/12/11

 11月の末、あいにくの雨だったが江戸糸あやつり人形芝居(おどらでく)の公演に出かけた。

 行きがけに電車に揺られながら読んでいた本に、旧約聖書の「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶかを見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。」(創世記2・19)の引用から名づけについて語られている。
 新約にはヨハネの福音書に有名な「はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。 言葉は神と共にあった。 万物は言葉によって成り、言葉によらず成ったものはひとつもなかった。」という一節がありよく引かれる。
 私にはこれにずっと違和感があり、言葉の前に「もの」の存在があっただろうと思っていた。ただそれ以上深くは考えなかった。ものつくりはそんなこと考えているより何か作ったり壊したり撫でまわしたりしている方が好きなだけだが。
 そこで先の旧約の言葉に出会って、名づけということより神が獣を鳥を土で形づくったというところに引き付けられた。土で形づくると言えばこれは彫刻に他ならない。私も彫刻家の端くれなのでここに引っかかるのだ。
 人間が「もの」を作ってきた起源をたずねると、まず尖った石を手にして何をやったかといえば形を作ったのであり、それは二次元に還元せねばならない絵画的表現に先んずるだろう。

 人形芝居に話を戻す。演者である田中純さん、塩田雪さんについては前に書いている http://dek.asablo.jp/blog/2012/05/27/ 。田中純さんは結城座の結城孫三郎といったほうがわかりやすいかもしれない。第11代孫三郎の名を返上、結城座を離れて26年になる。今回はこの5月に続いての早稲田「あらら・からら」での公演。今回は東海道中膝栗毛より卵塔場の場、太鼓のみで蔦紅葉宇都谷峠文弥殺しの場である。
 半年ぶりだけれど八十歳を超えてますます研ぎ澄まされた糸遣いに見入ってしまう。塩田さんもこの数年で吹っ切れたようによくなっている。前回は義太夫、三味線がついたが、太鼓のみだとみる方も舞台に集中して操る人も背後から消えて人形だけがそこに生きているように見えてくる。初めての感覚だった。
 配られた"態"と題された冊子に「人形とは創られ形代であり、又人形遣いも形代と云える」「古くは人形としての形代は実(むざね)で神であった」とある。精霊は形を通して現れるのであり、依り代として様々な「もの」「形」がまずあるのだろう、旧約の「・・・形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか」にも重なるのではないかなどと勝手に思いは巡る。「青農」から態へ、態から心へと論は進むのだが冊子を短くまとめるなどとてもかなわないのでこれ以上はやめておこう。
 田中純さんの人形芝居を初めて見たのが20年くらい前で今回と同じ演目、やはりあらら・かららでの公演だったが確かな記憶はない。今回の幕が下りてから、これからは演目のひとつひとつを演じ納めていくつもりだとおっしゃった。ということは見る方も見納めと...そう観客も覚悟を求められるのだ。

 「・・・それは心だ。態から抜け出した心だ。その心を観客が心を持って発見する。それが芸だ。その一座建立こそが芝居のだいご味だと思う。それには自己確立がなければならない。一人一人が自己の時間を持つ。時間とは思考だ。」

熊本地震の私的記録2016/10/16

 熊本地震から半年となります。実は4月14日、前震と呼ばれることになる直下型地震のその日、私は母親に会いに熊本を訪れていました。予定を立てるときに15日にするか14日にするか散々迷って14日にしたのです。信心深くもありませんがまるで何かに呼ばれたような気がします。 

 もちろん初めての経験で、落ち着けと自分に言い聞かせながら動いていました。走り書きのメモと画像があります。それから震源地などのデータも集めました。半年がたってそのままを整理して記録しておこうと思います。

 4月14日から時間を追って書いて、ブログの日付をさかのぼって公開します。同じ地域でも被災の状態は様々ですから、あくまでも私が個人的に体験した範囲としてお読みください。

 カテゴリに熊本地震を加えておきます。場所や個人が特定できないように一部の地名や固有名詞は書き換えました。

獅子頭の修復2016/10/12

 飛び込みでKさんが獅子頭を持ってきました。なぜかバラバラ。なぜバラバラになったかはここでは秘すとして、来週末には東北に舞いに行くので何とかお願いしますとのこと。別に由緒あるものではないということなので・・・ではやってみましょう。というわけで

         見事にバラバラです

         きっちり合わせて接着、締めこみます

         カシュ―塗料をぬり、接合部は裏打ちをして補強

         クラックや欠損した部分を補って色を入れます

         復活です

新しい手帳2016/10/02

 新しい手帳を買った。それだけのことだけれど実は10年ぶり。10年間手帳もいらないような生活をしていたわけで、ほとんど自宅で仕事をしていてカレンダーにメモをしておくだけで間に合っていた。

 ところが実家が熊本なので地震の影響もあり、高齢の一人暮らしの母もほっておけず、熊本に帰ることが多くなった。少し長期的な予定なども考えなければならなくなったという訳です。

 ぼちぼちとブログも書いていこう、地震のことも記録しておこうと思っています。

熊本地震遭遇記 4月17日以降2016/04/17

17日(日) 
 昨夜は風が強く余震のように聞こえて熟睡できなかった。熊本で避難している人たちの心細さはどれほどか、車中泊が長引けば元気な人間でも参ってしまうだろう。まずは熊本に戻って屋根の手当て、家のなかの片づけの算段をしなければ。

 駆けつけてくれた姪の車でホームセンターへ行く。ブルーシートも大判のものが在庫していた。細めのロープ、紐、テープ類、思い切ってインパクトドライバーと造作ビスも仕入れる。明日はレンタカーを返して帰る予定だったが熊本空港が機能してないのと落ち着くまでは帰れないので飛行機はキャンセル、レンタカーは延長してもらう。

 東日本大震災以降、何か自分にできることはないだろうかと被災写真のデジタルレタッチ、福島県楢葉町の保護犬の預かり、saveMLAKプロジェクトへ参加したり、エンジンチェーンソーを手に入れ、災害ボランティアの技能講習を受け、小型建設機械の特別教育も受けた。それがなんだ、そこに自分が被災する側になるという視点をちゃんと持っていただろうか。今はただ母の家と生活のことしか考えていないのだ。

 やっと落ち着いて誰彼に連絡をするが、話しているうちに目頭が熱くなってくる。母が心配しているのは買っておいたしょうがの苗のことだ。

 横になってもいろいろ考えてしまって熟睡できない。雨漏りはどうだろうか、明日は一人で行くべきか。


18日(月)
 朝、一人で行こうかと話すが、ここにじっとしていても仕方ないし、可能なら日帰りでということで、母もつれて義姉と3人で行くことにする。幸運なことに近所に借りたレンタカーの支店があって乗り捨て割り増しはいらないというので返却して義姉の車で動くことにする。

 8時前に出発、高速も熊本県境を超えるまでは流れている、菊水インターの手前から渋滞。追い越し車線は緊急車両、救援車両優先、遅々として進まず一般車両は植木インターで一般道へ、3号線、一部を迂回、北バイパスへ、ずっと両方向とも渋滞している。

渋滞する九州道

 もうお昼も過ぎた、北バイパスを少しそれて通りすがりに見つけた陣内二宮阿蘇神社の駐車場で持参した握り飯を食べる。この辺までは一目で倒壊してるような建物はあまりないが、この近くの龍田西小学校では法面が崩れたりしているので見えないところの状況はわからない。北バイパスに戻り東バイパス、道路に面して一階部分が完全に座屈したビルがあり片側3車線が1車線に規制されている。分離帯に重機が入って下り側に迂回車線を作るようだ。だんだんダメージが大きい建物が目立つ。嘉島町の田園地帯に入ると農家であろう古いつくりの大きな家の被害が大きい。

嘉島町の住宅

 結局辿り着いたのは午後3時、7時間かかった。これで日帰りはあきらめて腰を据えるしかない。電気、ガスもOK、井戸水も濁りはない。屋根に上がってみると北側が大きく棟からずれ落ちている。雨漏りは心配したほどではなく天井に少しシミと板張りが少し濡れている程度だった。何しろ片づけて泊まれるようにするしかない。食事をどうしたかは覚えていないがあるもので何とかしたのだろう。倒れそうなものを避けて布団を敷き休む。

 この日着いてからは20時41分頃阿蘇で震度5強、21時18分頃直下で震度4、いつまで揺れるのか。


19日(火)
 朝から私は屋根の補修、補修といっても屋根の上に落ちずに残っている瓦をできる限り元に戻して、シートをかけ風で飛ばないように結束して重しを置いてと、丸一日屋根の上だった。
棟からずれ落ちた瓦

 母はまず畑。しょうがの苗を植えている。たぶん長い時間ここを離れて暮らすというのは地震の心配以上に、精神的にも肉体的にも悪い影響を与えるだろう。心配のないようになるべく以前のままに暮らせるようにもとどおりにするしかない。

配給のパンとバナナ

 時々、給水車が来ているとか、食料を配布するといった広報がある。義姉が取りに行ったが母の一人分だけとパンとバナナをもらってくる。市内は断水と都市ガスが来ないというので相当大変なようだ。お隣はプレハブのようなところに避難しているとのこと。近くのご実家は全壊だそうだ。近所では家の外のガレージなどにテーブルを出したり、シートで仮囲いをしたりしている家も多い。

 渋滞を避けて夜になって福岡に戻る。まだまだ通って片付けるしかない。


熊本地震遭遇記 4月16日2016/04/16

 1時25分、またいきなりだ。ガンときて、ガタガタ、ガシャン、震度7(M町では6弱)震源は北北東に約5キロ、どのくらい続いたか。それからどうしたのかほとんど覚えていない。跳ね起きて母の無事を確認して、水の音がするので台所に行くと上から落ちたものが跳ね上がったらしく水栓が全開になっていたのを止めたのだけ覚えている。水栓レバーが下向きで止水という仕様になったのは地震対策のためだがこういうこともあるのだと妙に印象に残った。メモには停電とある。1時45分また揺れ、6弱。

 ご近所ももう避難するとのこと、ブレーカーを落としてまとめておいたものを持って母と車で近くの公民館へ。公民館といっても集会所のような感じであけ放たれて電気はついているが室内ではなく、みんな広げられたブルーシートの上で家から持ち出した布団などにくるまっているか、近くの空き地の車の中にいる。トイレは使えるようだが床は水浸しでバケツにためた水を使っているようだ。町会長さんに一応名前を告げ母の無事を伝えるが、名簿など作っている様子もない。消防団もいるがどういう動きをしているのかも全く分からない。私自身はここでは全くのよそ者なのだ。

 外は結構寒い。母を一人にしておくわけにもいかないので車に戻ってシートを倒して毛布をかぶる。カーナビのワンセグテレビを点けてみるがもう見る気力がない。母がトイレに行くと車を出ていくが公民館とは逆の方向に歩いて行くようなので、「えっ」と思って車から出たが公民館から少し離れているので明かりも届かず、真っ暗で姿が見えない。暗がりからやっと戻ってきた母に聞くと公民館は大変なようだから近くの草むらで用を足してきたという。心配させるなよ!

 まだ時々揺れる。3時3分阿蘇5強、3時55分阿蘇6強。それでも朝は間違いなくやってくる。車のシートの上で目をつぶっていただけのような気がする。母と車を出て今度は公民館のトイレに行くと、母の顔見知りやお世話になっている民生委員も居てしばらく立ち話。無事がわかると意外といつもの世話ばなしのようなことを話している。女性の強さなのか、この非日常の事態に実感がついてこないのか。

 母に様子を見てくると言って徒歩で家に向かう。途中アパートのプロパンガスボンベが転倒防止チェーンが外れて倒れ、ホース一本でぶら下がっているので起こして元栓を止めておく。住民の姿は見えない。道が舗装の継ぎ目でずれている。家に近づくと瓦がずれているのが見えた。裏に回るとやはりプロパンガスボンベはホース一本でぶら下がっている。こちらは瓦がかなり落ちている。家の中も前回の比ではない。今回ばかりは簡単には片付きそうもない。



 7時過ぎアルファ米の炊き込みご飯の炊き出し、列に並ぶと足りそうもないというのでだんだん減らされて、二人ですと言ってもお茶椀半分くらいしかもらえなかった。


 8時、母と車で家に戻る。あとで画像を見るとその前の揺れではびくともしなかった重い大きなサイドボードが私の寝ていた布団の上にかかっている。寝るときサイドボードが倒れることは考えてよけたつもりだったがどう見ても単純に倒れた距離を超えて動いているのだ。この写真を撮った時は何も意識していない。人にこんな状態だったと見せたときに初めてじっくりと見て布団が下敷きになっていると気がついたのだ。意識して窓側に身を寄せて寝ていたのか、深く眠ってもし逆に寝返りを打っていたら、これを悪運が強いというのか。とにもかくにも母と共に無事に生きているのだ。母の布団の脇にも部屋の隅のタンスの上にあったレターケースが転がっている。仏壇はまた飛んだ。揺れの方向は明らかに前と違うように見える。冷蔵庫の中身も飛び出していた。


 ちょっとこの状況でここにとどまるのは母の負担も大きい。幸い福岡まで行けば義姉がいる。一度避難して体も休めて仕切直そう。町会長さんに声をかけて10時頃出発。高速は植木インターまで行けば乗れるらしい。途中がどうなっているかわからないがナビがあるから何とかなるだろう。ちなみに公民館から600mほどの九州自動車道にかかる跨道橋は崩落している。

 東バイパスに至る道の途中でも何棟か全壊している。古い大きなつくりの家が多い。信号は動いているが道はところどころ段差ができ特に橋の継ぎ目がひどい。マンホールが浮き上がり、電柱も右に左に傾いている。東バイパスから北バイパスはずっと渋滞。途中車線規制があってよくテレビに出た一階のピロティが押しつぶされたマンションが見える。あけているコンビニはない。ガソリンスタンドはどこも長蛇の列。3号線に合流する前にガソリンスタンドに滑り込みトイレを借りる。ガソリンは入れないのに快く貸してくれて、そんなことがなによりありがたい。3号線は上下線とものろのろ、ナビで裏道を抜ける(この時ほどナビをありがたく思ったことはない)。開いてるコンビニを見つけて一休み、飲料、食料品はほとんどない。3時間かかって植木インターに辿り着く。高速に乗ると福岡方面は流れているが下りは長蛇の列だ。少し走って玉名PA、この辺まで来るとあまり被害もないようでフードコートが営業している。玉名ラーメンをすすってやっと人ごこちがつく。あとは母も助手席で寝ている。私も眠気に襲われて途中のサービスエリアで仮眠。義姉の家に着いたのが3時半だから普段は2時間半のところを5時間半かかったことになる。さすがにくたびれたが、母もよく耐えてくれた。安心もあってか福岡に着いてからのことは覚えていない。

熊本地震遭遇記 4月15日2016/04/15

 よく晴れていたと思う。まず玄関に散らばった灯油のポリタンクや段ボール箱、私の作品などを片づけて外へ出る。外から見る限り屋根瓦のゆるみもないし壁も大丈夫なようだ。ガスのマイコンメーターを復帰、電気も水も一応大丈夫だ。いつも母のことを頼んでいる西隣りのSさんが声をかけてくれる、私が来ているのがわかっていたので昨晩は声をかけませんでしたとのこと。両隣りとも家自体は大丈夫とのことだが、中はめちゃくちゃ、どこから片づければ、とにかく怪我もなくてよかったといった話をした。

                                 4月15日6時57分
 先に書いておくが震度5、6を含む昨夜から朝までの断続的な揺れに比べると、この15日9時~24時の揺れは3以上では震度3が6回、震度4が3回だから昨晩に比べれば少しおさまったように思えたのだ。

 朝食は難を逃れた昨夜の残りもので何とかすませる。朝刊は届いていたか、実は新聞もテレビでどういう風に報道されていたかも記憶が定かでないのと、メモした以外は15日に見たのか、16日だったのかわからなくなっている部分もある。確かなところを時系列で書いておく。ただこの時点では自治会も含めて公的なインフォメーションはなかったと思う。

 母には台所を頼んで、まずは落下した物、壊れた物を別にして邪魔にならないところに集める、壁にかけられた鏡や額はすべて外す。母が水が濁っているという。しばらく流してみるが濁りはなくならない。近所の上水道も止まっているらしい。まずは水の確保か。水をためておけるようなものもない。やっているとは思えないがホームセンターに行ってみよう。この時は近隣で外から目立つような被害はなかったような気がするがそこが不確かなのだ。

 ホームセンターは営業していた!が、レジだけは動いているが商品は散乱し、床の一部は水浸しというか油のようなものまで流れている。水を入れられるようなタンクはあるかと聞くと、行けるかわからないがと、途中まで行ってみたが崩れた商品に阻まれて諦め入り口近くにバケツを見つけてふたもあわせてふたつ確保。ガムテープやビニール袋。水も聞くと最後だという2本を手に入れた。後の客が水がないと聞いてがっかりしていて申し訳ない気分になったがさすがに一本どうぞとは言えなかった。しかし、ありがたかったがあの状態で良く営業していたものだ。レジもパートらしき女性だったが、いろいろ聞く余裕がこちらになかった。

 物置にいただき物のどこかの天然水もあったので、昼は母がそばを作った。市内で水が出ているところを聞いてバケツの中のビニール袋にたっぷり2杯確保。夕方までかかって小さい家だから大体のものは片づけた。仏壇はまた戻して下の台とガムテープでぐるぐる巻きにした。夕食はどうしたかメモがない。いつものようにはいかないが母が何かと作って食べたと思う。母は意外とのんきで多少濁っていても風呂くらいはといって湯をため始めた。結局濁りがひどくて入れなかったのだが。

 書いたように前夜に比べれば全体になんだか穏やかに思えた。念のために車には毛布と水を積み込んでおいたものの、もうあれほどの揺れはないだろう。よく寝ていないし、ふとんでゆっくり寝たい。枕元に必要な物をまとめて靴を置いて、私は板の間に、母も自分寝室で寝ることにした。母はすぐ眠りに落ちたようだ。私もいろいろと思いをめぐらして気持ちが高ぶっているようでもそのうちに寝てしまった。