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どこへ行くやらブログ開設2005/05/29

HPをつくろうと思いながら半端なHPはいやだと、その辺は優柔不断の性格も手伝って先送りにしていた。そこへASAHIネットからブログサービス開始のお知らせ。まずはやってみるかという訳で・・・皐月夜にどこへ行くやらブログ開設・・・木偶庵。

まずは、日記のように気楽にといったところで、小学校の絵日記以来まともに日記など書いたこともない。どうか三日坊主になりませんように。

今、アメリカからシスター・ヘレン・プレジャーさんが来日している。先日TV放映された「デッドマン・ウォーキング」の原作者といえば知っている方も多いかもしれない。今日は彼女の話しを聞きに水道橋のYMCAアジア青少年センターに行った(キャンペーン共にいのちを考える「The Death of Innocents」)。

この集まりの第1部でトシ・カザマさんのアメリカの少年死刑囚を撮影したスライドを映写しながらのトークが印象的だった。聞きながら思ったこと。死は平等だといった人がいる。死は誰にも訪れる。死は王様にも乞食にも必ず訪れる。その限りにおいて平等である。しかし私がその死に手を貸すとしたら。彼は司法の名において私たちはみんなが死刑執行人つまり人殺しだという。そのことは巧妙に隠されていると。

シスター・ヘレンは加えて死刑という制度は正義のためにみんなの生命と安全を守るために行われる戦争という名の殺人とメンタリティーにおいて同質だともいう。アメリカでは法学や、ジャーナリズム専攻の学生達の調査によって119人の死刑囚が冤罪から解放され、イリノイ州知事は死刑執行の凍結、再調査を命じたという。先進国(私はこの言葉が大嫌いだが)で死刑制度が残っているのは日本とアメリカだけで、日本では80%が支持していると言う。アメリカでも同様だったが前述のような出来事やキャンペーンの結果支持者は60%台までさがったそうである。

この数年、死を身近に感じる出来事が何度かあった。そのひとつひとつにたくさんの想いがある。ニュースは日々死を伝えるけれどその向こうにあるたくさんの想いを想像しなければ ただ感覚が麻痺していくような気がする。私が死刑を執行し、イラクの子供たちを殺している。受け入れがたいかもしれないけれど国家、権力は民主主義という名においてそれを国民に強いることができる。

会場にかけつけたオウム真理教に入信した子ども達(既に12人の死刑判決が出ている)の父親の悲痛な叫びがまだ耳にこびりついている。

このキャンペーンは熊本の生命山シュバイツァー寺、故古川泰龍さんのご家族が中心となっている。実は私が高校生の頃休みになると入りびたり、家族同様にしていただいた縁がある。そのことと、そのお寺の名前の由来、このキャンペーンのサブタイトル「福岡事件の真実を明らかに」の福岡事件についてはとても書ききれないのでまた改めて。(「福岡事件 再審請求」で検索をお願いします。)

ブログ開設の最初がこれかよ。自分でも重すぎてつらい。でも伝えたい。だからはじめたのだから。 まだ実名を名乗るか不安で迷っています。まずは知っている限りでお知らせして、見てもらって、どうぞ感想でも何でもご遠慮なくお寄せください。どうぞよろしく。

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