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村田銃の復元2012/11/04

復元した村田銃

前にある博物館にマタギが使っていた村田銃を納めてこのブログにも少し書きました。⇒ 2010/05/202010/06/13 これを見た方からぜひ作ってほしいという依頼がありこのひと月少しずつ作って昨日納めたところです。製作過程も少し整理してここに載せるつもりです。

太田喜八郎展2012/11/05

太田喜八郎展

今日始まりました。京橋で日曜日までです。

「三池」終わらない炭鉱(やま)の物語2012/11/07

 ある映画の情報を探そうとポレポレ東中野のホームページを見ていたら熊谷博子監督の「三池」終わらない炭鉱(やま)の物語が1週間だけアンコール上映されている。6年前に見そびれていてこれは行かぬわけにはいかない。

三池-終わらない炭鉱(やま)の物語

 前後の脈絡もなく眼に焼きついた風景というか情景というものがある。1959年から60年にかけて父が熊本の北辺、福岡県大牟田市に隣接する荒尾市に単身赴任していたことがある。まだ5歳か6歳だった私の目に焼きついているのは高架の単線の鉄路を渡っていくトロッコの列だ。逆光でシルエットで見たような気がするのだが、荒尾は大牟田の南なので逆光というのは私が勝手に作り上げた記憶かもしれない。

 まさに総資本対総労働といわれた三井三池争議の時期だったが幼稚園児の知る由もない。それでも父が買ってきた土門拳の「筑豊のこどもたち」は衝撃的だった。意識して見たのは小学生になってからだろうけどザラ紙に刷られた100円の写真集はこれも私の眼に焼きついている。また家の座敷には三池の組合が資金源として作っていたサルスベリの太く大きなパイプがおいてあった。

土門拳「筑豊のこどもたち」

 映画ではその三池炭鉱の歴史を丁寧にたどっていく。そこには戦争、国家、資源、資本、労働運動、差別といわば近代の負の縮図があぶりだされる。救われるのは現場にいた(いる)人たちに寄り添っていくようなインタビューが図式的な対立を超えた言葉では表しがたい人間の力を見せてくれるからだ。1963年の458人の死者と一酸化炭素中毒患者839人を出した炭塵爆発事故などを経て三池炭鉱は1997年に閉山した。CO中毒患者と家族は今も苦しんでいる。それでも生き抜いてきたお母ちゃんたちの姿がまぶしい。

 私が社会的な問題を意識するようになったときには水俣病やベトナム戦争が目の前にあって、福岡事件の再審運動にかかわっていても三池はすぐ隣だったにもかかわらず、上野英信さんの筑豊の本や菊畑茂久馬さんを通じて山本作兵衛さんの絵を知るくらいでなんとなく炭鉱のことは私の頭の中では霞がかかっていた。

 映画の中に生活のために第二組合を設立する、つまりスト破りの話が語られるが、私の父はレッドパージを潜り抜けて組合上がりで管理職になっていたのでそれなりの葛藤があったのだろうと思う。三井三池のことは他人事ではなかったのかもしれない。そのへんの事を今になって父に聞いてみたいと思うがそれもかなわない。

 それでもこの映画を見て私の頭の中の霞はだいぶ晴れた。近代が近代であるためにいかなるエネルギーを喰らってきたのか、エネルギーの確保と転換の国策、そこにある差別と棄民の構造が水俣にも沖縄にも福島にも通底すること。それはそのまま現在の非正規労働者や、貧困の問題であり原発の下請け労働者の問題でもある。そして3.11の後の世界の何を見なければならないのか、何を選び取るのか、どんな道を進むのかそのベクトルを示している。

 私は今現在の時代の前景をひとつの炭鉱を切り口に見せてくれるこの映画をぜひ皆さんにも見てほしいと思う。神奈川、大阪、広島、福島と上映が続くそうです。

 上映後、熊谷監督と鎌田慧さんのトークがあり、上映会を訪ねてきた行き場なく福島第1原発の下請けに入ったものの解雇された若者の話、与論島から三池に入った人たちへの差別など炭鉱(やま)の物語が今につながることをあらためて思う。それから20人ほどで監督と鎌田さんを囲んでお茶会があり、中には実際に三池で落盤にあったという人もいて密度の濃い時間を過ごすことができた。いまだこの国の地下には300年くらいはエネルギーをまかなえる量の石炭が眠っているそうだ。

気がつけば延6万人2012/11/11

北浦和公園の紅葉

気がつけばアクセスカウンターが6万人を超えている。こんな独り言にお付き合いいただきありがとうございます。同じ日に同じ人が複数回アクセスしても1回にしかカウントされないので、1日実数で25人ほどが訪れたことになります。それを下手すればひと月も更新していなかったりするのだから恐縮するばかり。といって何の反省もなく、これまでどおりに気ままに書いてまいりますのでよろしければこれからもお付き合いを。

画像は北浦和公園の紅葉。土曜日に久しぶりに埼玉県立近代美術館へ。「日本の70年代1968-1982」展を見た。.ちょうど私の20代とぴったりと重なるのでほとんど見てきた、知っているもので、自分の過去をトレースしていくような変な気分。確かにいろんなことがむき出しになり、無形のエネルギーに満ちながら、それも資本と消費、欲望のシステムに貪られていく時代だ。そこから30年、なにもよくなったとは言えない現在を考える。

同日夕方、所沢で工房の同門10名ほどで集まる。11月8日が鞴(ふいご)祭りで師小畠廣志の命日、17回忌、渓子夫人7回忌、工房の講師だった水島道雄も今年他界。早いというのが実感。誰かが時間は過去から未来に向かっていくのではなく、未来から私たちの方にやってくるのだと言っていたけれどたしかにその方が腑に落ちる。うまく言えないけれどそれが今なのだ。

村田銃の復元 12012/11/12

村田銃の復元資料

昨日は久しぶりの飲み疲れと、雨とで結局国会前には行きそびれ、言い訳のように次の仕事の図面をいじっていた。

また忙しくなる前に村田銃の復元について製作過程を書いておこう。伝統的狩猟民「マタギ」が使っていた村田銃というのはもちろん軍用銃の払い下げもあったのだろうけれど、ほぼ同形の散弾銃村田「式」銃を含め同様の単発銃をひろく村田銃と呼ぶようになったらしい。「村田銃」 - Wikipedia

今回参考にしたのは前に作った栃木県の博物館に保存されている村田銃の画像資料。宮古市北上山地民俗資料館の実測図もほぼ同様の特徴を備えているので同形のものだろう。二つの年式がある軍用の村田銃の資料(こちらの方がネットでも多くの写真資料がある)も参考に外形図を作って図面も画像もなるべく実物大にして用意する。

なにしろ実物にはお目にかかっていないので画像資料が頼りなのだ。これを可能な限り用意してからはじめて制作に取りかかる。

放射性物質を測定してみた2012/11/13

空間線量-柿の木

 我が家の柿ノ木の根元近く、空間線量をはかると0.2μSvと少し高め。この線量計は市役所で貸し出しているもの。これが地表1mで毎時0.23 マイクロシーベルト以上から毎時1 マイクロシーベルト未満だと 「直ちにカラーコーン等で囲いをするとともに看板等で警告し、その後、除染を実施する」レベルになる。雨樋の排水が流れ込むところにあり枯葉が降り積もった場所なので高くなる条件はある。

 今年は成り年ではない、というより落果が多かったのでそんなに豊作ではないけれど果たして果実に影響はあるものだろうか。ちょうどそろそろ収穫というところで市で食品中に含まれる放射性物質の簡易測定が始まったので(なんで今になって)さっそく申し込んでみた。

検体・柿のペースト

 ペースト状にした1Kgの柿の検体を用意して市役所の市民相談室に持ち込む。下の画像の簡易型ガンマ線スペクトロメータで計測する。見せてもらえるかと思ったら、やんわりと断られた。

簡易型ガンマ線スペクトルメータ

 もっと申し込みが殺到しているかと思ったらそうでもないらしい。というわけで栄えある計測第1号となりました。1時間後結果通知書をいただく。セシウム134も137も不検出、これで今年も安心しておすそ分けできます。

 まだきのこ類などは高線量がでている。わからずに疑心暗鬼になるよりは市で無償で計ってもらえるのだから利用すべし、ということです。

放射性物質測定結果

アンプラグドで行こう 32012/11/15

自転車用バックミラー

これは電気ではないけれど、化石燃料を使わないということで自転車。このところかつては車が当たり前だったところもできる限り自転車で出かける。慣れてくると渋滞も関係なくてよいのだが...。

問題は自転車レーンなどない道路事情。なるべく車道の左側を走るが、大体小砂利と微妙な段差が多く、車に迫られて危険な思いをすることもあるし、ドライバーから明らかに迷惑な視線を送られることもある。

自転車に乗って感じるのは後方確認の難しさ。走りながら振り返って確認するのはけっこう危険だし、度のついた眼鏡をかけているとよく見えない、いちいち止まっていてはせっかくの機動性が損なわれる。

車を運転に慣れていると1/3はバックミラーを見ているようなものだから、自転車用のバックミラーもありだろうと専門店に行くといろいろありました。小ぶりだけど充分な視界があり、あるとなしでは雲泥の差。走行中の安心感が違う。あまりミラーをつけた自転車を見かけないけどおすすめです。

村田銃の復元 22012/11/17

村田銃銃身

 銃身の仮組み。銃身に肉厚のパイプ、ボルトアクション(弾を込めるところ)を仕込む材料を合わせてみる。芯の通りや組み込み部分の調整をしてから切削加工へ。

村田銃パーツ

 ボルトハンドルは丸鋼から、ローレットツマミは真鍮製の市販品(画像右下)から、ボール盤を旋盤代わりに削り出す。マイナスネジはプラスネジの頭を溶接で埋めてからマイナスの溝を刻む。こういう細部の仕上がりが最後の完成度を左右する。

 カテゴリーに村田銃の復元を追加しました。

村田銃の復元 32012/11/19

村田銃パーツ

 ボルトハンドルを溶接して遊底部分を仕上げる。その他小さなパーツも切ったり削ったり溶接と細かい作業。鉄の適度な粘りと加工性のよさは他の金属になく、熱処理をするとさらに全く違う顔を見せてくれる。

村田銃遊底の組込

 ボルトアクションの組立。パイプを切削していくと開いて寸法が狂ったりするので修正しながら微調整する。

村田銃銃身の組立

 銃身の組立。あくまでレプリカなので可動部分はない。すべて見えないところで溶接、ネジ止めで固定してある。モデルにしたマタギの村田銃は13年式と18年式の特徴が混在している。

村田銃の復元 42012/11/20

銃床の木取り

 テーブルソーとジグソーで木取り。銃床に使う材はウォールナットが一般的といわれるが今回は実際によく使われていたというブナ材を使う。厚みが45mmほど必要なので材の入手もだんだん難しくなってくる。今はある程度ボリュームのある材は集成材が多い。資源活用には良いのだが。
 
銃床成形

 なるべく刃物で成形をする。サンドペーパーを使うのは最後。サンドペーパーを使ったあと刃物を使うと刃が傷むのだ。

銃床成形

 銃身に合わせて微調整。ここが決まればもう少しだ。