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熊本地震遭遇記 4月14日2016/04/14

 熊本のM町に暮らす母は今年92歳になる。昨年の酷暑には軽い熱中症か?というようなこともあり、一人が気楽といい文字通りの晴耕雨読の日々だがさすがに弱気になることも多くなった。この正月に帰った折にもっと頻繁に帰省することを約束した。

 4月14日木曜日朝家を出るといつものソラシドエア機で2時に熊本空港に着く。レンタカーを借りて益城町のまだ麦が青い水田地帯を抜けてM町へ。家につくとまずは買い出し、ホームセンターで畑にまく鶏糞など、スーパーで刺身やノンアルコールビールを仕入れる。畑でアスパラやあしたばを収穫、年々勢いを増すように見える草。いつもついた翌日は草刈りからはじまる。

 夕食は野菜の天ぷらに天草の鯛の刺身、小アジの南蛮漬け、野菜も魚も新鮮でこれに勝るものはない。テレビを横目で見ながら母と取り留めのない話をする。話も尽きて母は台所に立って洗い物をはじめた。

 21時26分 ドン、ガガガガー、座椅子に座っていても体が揺さぶられる。隣の部屋の仏壇が倒れる。ガシャンというものの割れる音が響く。「母さん、大丈夫」叫ぶと母が這うように戻ってくる。どのくらい揺れていただろうか。一瞬停電したがほどなく回復、母には居間の座卓の下で横になってもらう。意外と落ち着いている。耳が遠いというのが幸いしているのかもしれない。何を話したかも覚えていない。

 時々大きな揺れが来る、それも今まで経験したような ゆさ、ゆさゆさといった感じの揺れ方ではなくいきなり ドン、ガタガタと来る。直下型地震なのだ。

 家の中を見回ると板の間のサイドボードの上の焼き物はほとんど落ちて割れている。母の寝室の灯具が落ち、台所の開き戸の食器棚も中身が散乱している。井戸なので電気が来ていれば水は出る。ガスはプロパンだがたぶんマイコンメーターが遮断しているだろう。家自体に大きな支障はなさそうだ。

                                 4月14日23時37分

 築23年ほどの小さな平屋で居間は4畳半、ほぼ中央に位置している。テレビ以外に倒れるようなものもないし、壁の傾いた額を下におろしておけば余震があったとしてもまず大丈夫だろう。仏壇だけは何とか元に戻した。夜だから無用に動き回るのはやめて居間に横になってテレビを見る。倒壊した家屋もあるようだが断片的な情報で全体像は見えない。古い携帯電話はあまりつながらないので、黒電話でかけてみたり、ショートメールで無事を伝えたりした。誰に連絡し誰から連絡があったかあまり覚えていない。

 最初の揺れが震度7、震度に7以上はないのだから最大震度ということだ。後で調べると益城町で震度7、ここM町では震度6弱、震源は北東に約6キロ、地下10キロだった。日付が変わるまでの2時間半の間に震度6弱と5弱が一回ずつ、震度4が9回、震度3が6回と揺れているのだ。もちろんM町でこの震度だったわけではないが。(つづく)

熊本地震遭遇記 4月15日朝まで2016/04/15

 日付が変わってまたガンッと揺れる。大きい。0時3分、震度6強(M町では6弱)。仏壇がまた飛ぶように倒れる。どうするか、母を連れて家を出るか、公民館?車の中?外の様子を見てもそんなに立て込んだ地域ではないが、近所の人の姿も見えない。家は大丈夫そうだ。母は「あんたがおってくれたけんほんとよかった。こぎゃんこつは初めてよ。ひとりだったらどぎゃんしてよかか、パニックたい。」というようなことを何度も言っていたような...気がする。

 この時の震源は家から東北東に2.7キロしか離れていない。深さが10キロくらいだからほとんど震源の真上だったとわかったのはずっと後になってからだ。

 もう老母を連れてまだ冷え込む外に出て右往左往するよりここにいようと覚悟した。もう一度家の中を見回り、母にも貴重品、履物、上着、ちょっとした着替えなどを枕元に置くように言って、私も毛布や、飲み物を探して4畳半に集めた。テレビでは断片的、局地的な情報を繰り返している。横になる。記録だと1時53分にやはり直下の震源で5弱の揺れがあったようだがあまり覚えていない。明日何とか片付けよう。休もう。あまり眠れない。

         倒れた仏壇(4月15日0時26分)

 午前0時から朝9時まで 震度6強1回、震度5弱1回、震度4 7回、震度3 14回。
一度強い揺れを経験するとやはり慣れるのである。ただ震度5弱と6強では次元が違う。さらに7というのはどんな揺れか、益城町の惨状を見ればよくわかる。震度5と6には弱、強とあるがこれは5、6、7、8と表した方が体感に近いだろう。

 やっと外が白み始める。九州の朝はおそい。

熊本地震遭遇記 4月15日2016/04/15

 よく晴れていたと思う。まず玄関に散らばった灯油のポリタンクや段ボール箱、私の作品などを片づけて外へ出る。外から見る限り屋根瓦のゆるみもないし壁も大丈夫なようだ。ガスのマイコンメーターを復帰、電気も水も一応大丈夫だ。いつも母のことを頼んでいる西隣りのSさんが声をかけてくれる、私が来ているのがわかっていたので昨晩は声をかけませんでしたとのこと。両隣りとも家自体は大丈夫とのことだが、中はめちゃくちゃ、どこから片づければ、とにかく怪我もなくてよかったといった話をした。

                                 4月15日6時57分
 先に書いておくが震度5、6を含む昨夜から朝までの断続的な揺れに比べると、この15日9時~24時の揺れは3以上では震度3が6回、震度4が3回だから昨晩に比べれば少しおさまったように思えたのだ。

 朝食は難を逃れた昨夜の残りもので何とかすませる。朝刊は届いていたか、実は新聞もテレビでどういう風に報道されていたかも記憶が定かでないのと、メモした以外は15日に見たのか、16日だったのかわからなくなっている部分もある。確かなところを時系列で書いておく。ただこの時点では自治会も含めて公的なインフォメーションはなかったと思う。

 母には台所を頼んで、まずは落下した物、壊れた物を別にして邪魔にならないところに集める、壁にかけられた鏡や額はすべて外す。母が水が濁っているという。しばらく流してみるが濁りはなくならない。近所の上水道も止まっているらしい。まずは水の確保か。水をためておけるようなものもない。やっているとは思えないがホームセンターに行ってみよう。この時は近隣で外から目立つような被害はなかったような気がするがそこが不確かなのだ。

 ホームセンターは営業していた!が、レジだけは動いているが商品は散乱し、床の一部は水浸しというか油のようなものまで流れている。水を入れられるようなタンクはあるかと聞くと、行けるかわからないがと、途中まで行ってみたが崩れた商品に阻まれて諦め入り口近くにバケツを見つけてふたもあわせてふたつ確保。ガムテープやビニール袋。水も聞くと最後だという2本を手に入れた。後の客が水がないと聞いてがっかりしていて申し訳ない気分になったがさすがに一本どうぞとは言えなかった。しかし、ありがたかったがあの状態で良く営業していたものだ。レジもパートらしき女性だったが、いろいろ聞く余裕がこちらになかった。

 物置にいただき物のどこかの天然水もあったので、昼は母がそばを作った。市内で水が出ているところを聞いてバケツの中のビニール袋にたっぷり2杯確保。夕方までかかって小さい家だから大体のものは片づけた。仏壇はまた戻して下の台とガムテープでぐるぐる巻きにした。夕食はどうしたかメモがない。いつものようにはいかないが母が何かと作って食べたと思う。母は意外とのんきで多少濁っていても風呂くらいはといって湯をため始めた。結局濁りがひどくて入れなかったのだが。

 書いたように前夜に比べれば全体になんだか穏やかに思えた。念のために車には毛布と水を積み込んでおいたものの、もうあれほどの揺れはないだろう。よく寝ていないし、ふとんでゆっくり寝たい。枕元に必要な物をまとめて靴を置いて、私は板の間に、母も自分寝室で寝ることにした。母はすぐ眠りに落ちたようだ。私もいろいろと思いをめぐらして気持ちが高ぶっているようでもそのうちに寝てしまった。


熊本地震遭遇記 4月16日2016/04/16

 1時25分、またいきなりだ。ガンときて、ガタガタ、ガシャン、震度7(M町では6弱)震源は北北東に約5キロ、どのくらい続いたか。それからどうしたのかほとんど覚えていない。跳ね起きて母の無事を確認して、水の音がするので台所に行くと上から落ちたものが跳ね上がったらしく水栓が全開になっていたのを止めたのだけ覚えている。水栓レバーが下向きで止水という仕様になったのは地震対策のためだがこういうこともあるのだと妙に印象に残った。メモには停電とある。1時45分また揺れ、6弱。

 ご近所ももう避難するとのこと、ブレーカーを落としてまとめておいたものを持って母と車で近くの公民館へ。公民館といっても集会所のような感じであけ放たれて電気はついているが室内ではなく、みんな広げられたブルーシートの上で家から持ち出した布団などにくるまっているか、近くの空き地の車の中にいる。トイレは使えるようだが床は水浸しでバケツにためた水を使っているようだ。町会長さんに一応名前を告げ母の無事を伝えるが、名簿など作っている様子もない。消防団もいるがどういう動きをしているのかも全く分からない。私自身はここでは全くのよそ者なのだ。

 外は結構寒い。母を一人にしておくわけにもいかないので車に戻ってシートを倒して毛布をかぶる。カーナビのワンセグテレビを点けてみるがもう見る気力がない。母がトイレに行くと車を出ていくが公民館とは逆の方向に歩いて行くようなので、「えっ」と思って車から出たが公民館から少し離れているので明かりも届かず、真っ暗で姿が見えない。暗がりからやっと戻ってきた母に聞くと公民館は大変なようだから近くの草むらで用を足してきたという。心配させるなよ!

 まだ時々揺れる。3時3分阿蘇5強、3時55分阿蘇6強。それでも朝は間違いなくやってくる。車のシートの上で目をつぶっていただけのような気がする。母と車を出て今度は公民館のトイレに行くと、母の顔見知りやお世話になっている民生委員も居てしばらく立ち話。無事がわかると意外といつもの世話ばなしのようなことを話している。女性の強さなのか、この非日常の事態に実感がついてこないのか。

 母に様子を見てくると言って徒歩で家に向かう。途中アパートのプロパンガスボンベが転倒防止チェーンが外れて倒れ、ホース一本でぶら下がっているので起こして元栓を止めておく。住民の姿は見えない。道が舗装の継ぎ目でずれている。家に近づくと瓦がずれているのが見えた。裏に回るとやはりプロパンガスボンベはホース一本でぶら下がっている。こちらは瓦がかなり落ちている。家の中も前回の比ではない。今回ばかりは簡単には片付きそうもない。



 7時過ぎアルファ米の炊き込みご飯の炊き出し、列に並ぶと足りそうもないというのでだんだん減らされて、二人ですと言ってもお茶椀半分くらいしかもらえなかった。


 8時、母と車で家に戻る。あとで画像を見るとその前の揺れではびくともしなかった重い大きなサイドボードが私の寝ていた布団の上にかかっている。寝るときサイドボードが倒れることは考えてよけたつもりだったがどう見ても単純に倒れた距離を超えて動いているのだ。この写真を撮った時は何も意識していない。人にこんな状態だったと見せたときに初めてじっくりと見て布団が下敷きになっていると気がついたのだ。意識して窓側に身を寄せて寝ていたのか、深く眠ってもし逆に寝返りを打っていたら、これを悪運が強いというのか。とにもかくにも母と共に無事に生きているのだ。母の布団の脇にも部屋の隅のタンスの上にあったレターケースが転がっている。仏壇はまた飛んだ。揺れの方向は明らかに前と違うように見える。冷蔵庫の中身も飛び出していた。


 ちょっとこの状況でここにとどまるのは母の負担も大きい。幸い福岡まで行けば義姉がいる。一度避難して体も休めて仕切直そう。町会長さんに声をかけて10時頃出発。高速は植木インターまで行けば乗れるらしい。途中がどうなっているかわからないがナビがあるから何とかなるだろう。ちなみに公民館から600mほどの九州自動車道にかかる跨道橋は崩落している。

 東バイパスに至る道の途中でも何棟か全壊している。古い大きなつくりの家が多い。信号は動いているが道はところどころ段差ができ特に橋の継ぎ目がひどい。マンホールが浮き上がり、電柱も右に左に傾いている。東バイパスから北バイパスはずっと渋滞。途中車線規制があってよくテレビに出た一階のピロティが押しつぶされたマンションが見える。あけているコンビニはない。ガソリンスタンドはどこも長蛇の列。3号線に合流する前にガソリンスタンドに滑り込みトイレを借りる。ガソリンは入れないのに快く貸してくれて、そんなことがなによりありがたい。3号線は上下線とものろのろ、ナビで裏道を抜ける(この時ほどナビをありがたく思ったことはない)。開いてるコンビニを見つけて一休み、飲料、食料品はほとんどない。3時間かかって植木インターに辿り着く。高速に乗ると福岡方面は流れているが下りは長蛇の列だ。少し走って玉名PA、この辺まで来るとあまり被害もないようでフードコートが営業している。玉名ラーメンをすすってやっと人ごこちがつく。あとは母も助手席で寝ている。私も眠気に襲われて途中のサービスエリアで仮眠。義姉の家に着いたのが3時半だから普段は2時間半のところを5時間半かかったことになる。さすがにくたびれたが、母もよく耐えてくれた。安心もあってか福岡に着いてからのことは覚えていない。

熊本地震遭遇記 4月17日以降2016/04/17

17日(日) 
 昨夜は風が強く余震のように聞こえて熟睡できなかった。熊本で避難している人たちの心細さはどれほどか、車中泊が長引けば元気な人間でも参ってしまうだろう。まずは熊本に戻って屋根の手当て、家のなかの片づけの算段をしなければ。

 駆けつけてくれた姪の車でホームセンターへ行く。ブルーシートも大判のものが在庫していた。細めのロープ、紐、テープ類、思い切ってインパクトドライバーと造作ビスも仕入れる。明日はレンタカーを返して帰る予定だったが熊本空港が機能してないのと落ち着くまでは帰れないので飛行機はキャンセル、レンタカーは延長してもらう。

 東日本大震災以降、何か自分にできることはないだろうかと被災写真のデジタルレタッチ、福島県楢葉町の保護犬の預かり、saveMLAKプロジェクトへ参加したり、エンジンチェーンソーを手に入れ、災害ボランティアの技能講習を受け、小型建設機械の特別教育も受けた。それがなんだ、そこに自分が被災する側になるという視点をちゃんと持っていただろうか。今はただ母の家と生活のことしか考えていないのだ。

 やっと落ち着いて誰彼に連絡をするが、話しているうちに目頭が熱くなってくる。母が心配しているのは買っておいたしょうがの苗のことだ。

 横になってもいろいろ考えてしまって熟睡できない。雨漏りはどうだろうか、明日は一人で行くべきか。


18日(月)
 朝、一人で行こうかと話すが、ここにじっとしていても仕方ないし、可能なら日帰りでということで、母もつれて義姉と3人で行くことにする。幸運なことに近所に借りたレンタカーの支店があって乗り捨て割り増しはいらないというので返却して義姉の車で動くことにする。

 8時前に出発、高速も熊本県境を超えるまでは流れている、菊水インターの手前から渋滞。追い越し車線は緊急車両、救援車両優先、遅々として進まず一般車両は植木インターで一般道へ、3号線、一部を迂回、北バイパスへ、ずっと両方向とも渋滞している。

渋滞する九州道

 もうお昼も過ぎた、北バイパスを少しそれて通りすがりに見つけた陣内二宮阿蘇神社の駐車場で持参した握り飯を食べる。この辺までは一目で倒壊してるような建物はあまりないが、この近くの龍田西小学校では法面が崩れたりしているので見えないところの状況はわからない。北バイパスに戻り東バイパス、道路に面して一階部分が完全に座屈したビルがあり片側3車線が1車線に規制されている。分離帯に重機が入って下り側に迂回車線を作るようだ。だんだんダメージが大きい建物が目立つ。嘉島町の田園地帯に入ると農家であろう古いつくりの大きな家の被害が大きい。

嘉島町の住宅

 結局辿り着いたのは午後3時、7時間かかった。これで日帰りはあきらめて腰を据えるしかない。電気、ガスもOK、井戸水も濁りはない。屋根に上がってみると北側が大きく棟からずれ落ちている。雨漏りは心配したほどではなく天井に少しシミと板張りが少し濡れている程度だった。何しろ片づけて泊まれるようにするしかない。食事をどうしたかは覚えていないがあるもので何とかしたのだろう。倒れそうなものを避けて布団を敷き休む。

 この日着いてからは20時41分頃阿蘇で震度5強、21時18分頃直下で震度4、いつまで揺れるのか。


19日(火)
 朝から私は屋根の補修、補修といっても屋根の上に落ちずに残っている瓦をできる限り元に戻して、シートをかけ風で飛ばないように結束して重しを置いてと、丸一日屋根の上だった。
棟からずれ落ちた瓦

 母はまず畑。しょうがの苗を植えている。たぶん長い時間ここを離れて暮らすというのは地震の心配以上に、精神的にも肉体的にも悪い影響を与えるだろう。心配のないようになるべく以前のままに暮らせるようにもとどおりにするしかない。

配給のパンとバナナ

 時々、給水車が来ているとか、食料を配布するといった広報がある。義姉が取りに行ったが母の一人分だけとパンとバナナをもらってくる。市内は断水と都市ガスが来ないというので相当大変なようだ。お隣はプレハブのようなところに避難しているとのこと。近くのご実家は全壊だそうだ。近所では家の外のガレージなどにテーブルを出したり、シートで仮囲いをしたりしている家も多い。

 渋滞を避けて夜になって福岡に戻る。まだまだ通って片付けるしかない。