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江戸糸あやつり人形芝居を見る2016/12/11

 11月の末、あいにくの雨だったが江戸糸あやつり人形芝居(おどらでく)の公演に出かけた。

 行きがけに電車に揺られながら読んでいた本に、旧約聖書の「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶかを見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。」(創世記2・19)の引用から名づけについて語られている。
 新約にはヨハネの福音書に有名な「はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。 言葉は神と共にあった。 万物は言葉によって成り、言葉によらず成ったものはひとつもなかった。」という一節がありよく引かれる。
 私にはこれにずっと違和感があり、言葉の前に「もの」の存在があっただろうと思っていた。ただそれ以上深くは考えなかった。ものつくりはそんなこと考えているより何か作ったり壊したり撫でまわしたりしている方が好きなだけだが。
 そこで先の旧約の言葉に出会って、名づけということより神が獣を鳥を土で形づくったというところに引き付けられた。土で形づくると言えばこれは彫刻に他ならない。私も彫刻家の端くれなのでここに引っかかるのだ。
 人間が「もの」を作ってきた起源をたずねると、まず尖った石を手にして何をやったかといえば形を作ったのであり、それは二次元に還元せねばならない絵画的表現に先んずるだろう。

 人形芝居に話を戻す。演者である田中純さん、塩田雪さんについては前に書いている http://dek.asablo.jp/blog/2012/05/27/ 。田中純さんは結城座の結城孫三郎といったほうがわかりやすいかもしれない。第11代孫三郎の名を返上、結城座を離れて26年になる。今回はこの5月に続いての早稲田「あらら・からら」での公演。今回は東海道中膝栗毛より卵塔場の場、太鼓のみで蔦紅葉宇都谷峠文弥殺しの場である。
 半年ぶりだけれど八十歳を超えてますます研ぎ澄まされた糸遣いに見入ってしまう。塩田さんもこの数年で吹っ切れたようによくなっている。前回は義太夫、三味線がついたが、太鼓のみだとみる方も舞台に集中して操る人も背後から消えて人形だけがそこに生きているように見えてくる。初めての感覚だった。
 配られた"態"と題された冊子に「人形とは創られ形代であり、又人形遣いも形代と云える」「古くは人形としての形代は実(むざね)で神であった」とある。精霊は形を通して現れるのであり、依り代として様々な「もの」「形」がまずあるのだろう、旧約の「・・・形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか」にも重なるのではないかなどと勝手に思いは巡る。「青農」から態へ、態から心へと論は進むのだが冊子を短くまとめるなどとてもかなわないのでこれ以上はやめておこう。
 田中純さんの人形芝居を初めて見たのが20年くらい前で今回と同じ演目、やはりあらら・かららでの公演だったが確かな記憶はない。今回の幕が下りてから、これからは演目のひとつひとつを演じ納めていくつもりだとおっしゃった。ということは見る方も見納めと...そう観客も覚悟を求められるのだ。

 「・・・それは心だ。態から抜け出した心だ。その心を観客が心を持って発見する。それが芸だ。その一座建立こそが芝居のだいご味だと思う。それには自己確立がなければならない。一人一人が自己の時間を持つ。時間とは思考だ。」