WWW を検索 ブログ内検索

もうひとふんばり2012/09/15

先月日がな鉄棒を曲げて溶接してと書いた仕事もやっとつくりの部分はめどがついてきた。ほぼ1ヶ月土日もなしだったので出口が見えたとたん、すでに納めた部材を見つからないとアトリエ中探す始末。そういうことで張っていた気が抜けるというより、ずれた感じで以外と元に戻すのに時間がかかる。もうひとふんばり。

そう、ラジオの永六輔の番組にむのたけじさんが出ていた。97歳、近頃の若い者はなどとは言わない、今の若い人には希望が持てると言い切る。むのたけじさんの本は前にも紹介したが、震災後「希望は絶望のど真ん中に」が岩波新書で出ている。

それから、飯塚事件の死刑囚久間三千年さんのDNA再鑑定を裁判所が弁護団に認めたというニュースがあった。菅谷さんの事件と同じ頃で証拠がやはりDNA鑑定によるというもので、冤罪事件といわれながら足利事件が注目されていた4年前に死刑が執行されてしまった。なんとか再審にたどり着ければと願う。

山本義隆さんと内山節さんの本2012/06/03

山本義隆といえば私の世代にとってはまず東大全共闘の議長なのだが、氏はその後大学や関係機関には戻ることなく、在野の研究者となった。2003年の「磁力と重力の発見」(みすず書房)は西欧がいかに科学的原理を獲得してきたのか、ギリシャからキリスト教、スコラ哲学、イスラムまでも視野に入れた道筋と本質を見事に見せてくれた。

この「福島の原発事故をめぐって」では素粒子論を専攻した者として、原子核物理学と原子核工学の非常な乖離などから、核を扱うことの不可逆性、また原発を国策として推し進めていく翼賛体制を原発ファシズムとまで断言する。その本質を非常にわかりやすく示してくれる。

一方内山節さんの「ローカリズム原論」は直接震災や原発に言及するものではない。よく感じるのは今の社会のあり方に自省的でお金よりもどう生きるかを大事に考える人(だいたい原発はやめようと言っている)と、今の閉塞状況を打破するためには経済成長がまず条件だという人(だいたい原発を容認している)の埋めがたい違いがある。

よく言われるのは現在の利便性を維持できるのかということだが、裏返せばそれを獲得したにもかかわらず、格差の拡大やコミュニティの崩壊が深刻に語られる現実がある。では何を失ったのか内山節は過去に学びながら新たな共同体を自らの実践から提示する。それは端的に言えばお金に換算できない人と自然と過去(死者)のつながる東洋的、日本的世界観であり、多層で有機的なつながりなのだ。

問題を指摘し語るものは多いが、ではどうするかという時にこれからの選ぶべき方向性をよく示してくれている。

「犠牲のシステム 福島・沖縄」「春を恨んだりはしない」2012/05/12

手に取る本もやはり震災や原発に関するものが多くなる。

高橋哲哉「犠牲のシステム 福島・沖縄」は差別の構造から犠牲のシステムがいかに作られ機能し日本の近現代を形作ってきたかを、福島と沖縄を通して福島に生まれ育った哲学者が読み解く。

「春を恨んだりはしない」の池澤夏樹は、副題に震災をめぐって考えたこととあるように、看取られることなく突然になくなったたくさんの、ひとりひとりの死のありようから語り始め、現場を訪れ揺れ動く気持ちを吐露するように綴られる。自身あとがきに「作家になって長いが、こんな風に本を書いたことはなかった」と書いている。また物理の徒として原子力の本質的な不可逆性、私たちの日常、原子レベルの世界と、その下の原子核と素粒子にかかわる世界の本質的な違いを語り、エネルギーの未来を考える。

語り口、切り口ははずいぶんと違うけれど、そうではないだろうかと感じていたようなこと、あるいは自分が立っている場所をわかりやすく示してくれる。ではこれからどうするのか、その気持ちや思いを後ろから支えてくれるような2冊だ。

「またやって来たからといって/春を恨んだりはしない/例年のように自分の義務を/果たしているからといって/春を責めたりはしない

わかっている わたしがいくら悲しくても/そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ヴィスワヴァ・シンボルスカ「眺めとの別れ」から(沼野充義訳「終わりと始まり」未知谷

三木成夫の本2012/05/07

三木成夫の本

本を読んでも集中できない、活字を追っていても心ここにあらずでページを閉じてしまうような状態が続いていた。

連休の前あたりから、仕事の間があいたこともあるが少しづつ積んでおいた本を片付けている。

土曜日にデモから帰るとすぐ千石先生の「つながりあういのち」が届いて久しぶりに一気読み。聞き書きなので読みやすく、若い人にぜひ読んでほしい一冊だ。

画像は三木成夫さんの「生命形態学序説」(1992年うぶすな書院刊)と「胎児の世界」(1983年中公新書)。前者は亡くなって数年たって編まれた論文集なのだが、自身の描かれた魅力的な図版もあり、芸大で教えていたこともあって、作家の間でもバイブル視する人もいたほどである。私も当時借りてきてあかずに図版を眺めていた。

もう絶版だろうかと思っていたら、7刷を重ねているとわかって取り寄せた。「胎児の世界」は生前に出された数少ない著作の中でも一般向けに新書で刊行されたもの。

いずれも生物の発生とそこにこめられた宇宙的歴史とサイクルが、実際の植物や動物に即して語られる。それこそ宇宙的回転からDNAの二重螺旋もひとつにつながっていくのだ。そこにはゲーテや古今の絵画、彫刻、伊勢神宮から南の島の習俗までが引用される。間違えれば神秘主義に陥りかねないところを、解剖し観察しそこから考える目がしっかりと支えている。

胎児の成長が内包した生命の30億年のドラマは三木さんが繰り返し語った話で、誰でも聞いた記憶があるだろう。そう、「つながりあういのち」がそこにあり、それは簡単に人間がいじれるようなものではないはずだ。

最近話題に上がるバイオテクノロジーや生命倫理の問題はその専門性から判断保留になりがちだが、核の利用と同質の問題をはらんでいるだろう。既に農産物ではモンサント社など私企業による経済効率優先の生物改造が着々とすすんでいる。

たとえばこんな話もある。「体外受精児の問題」→http://d.hatena.ne.jp/KAYUKAWA/20120511

「つながりあういのち」千石正一2012/04/19

千石正一「つながりあういのち」

昨日の新聞で「千石先生のいのちはみんなつながっている」というDVDが、第53回科学技術映像祭で自然・暮らし部門の部門優秀賞を受賞したことを知りました。

今日科学技術映像祭で上映会があるようですが、埼玉では22日にこども動物自然公園で上映会があるようです。→ http://www.pref.saitama.lg.jp/news/page/news120418-03.html 行ってきました。→http://dek.asablo.jp/blog/2012/04/24/6424574

それから遺作となる病をえてから書かれた「つながりあういのち」が出版されたそうです。

紹介ページの著者からのメッセージや目次を見るだけでも心惹かれます。

「俺は、自分がガンで死ぬのはどうってことないと思っている。いや、どうってことないことはないな、本当は死ぬのは嫌だ。嫌に決まっている。死ぬのが嫌なのは、生き物としてあたりまえのことだから、ぜんぜん恥ずかしくなんかないよ。自分が死ぬのは、個体としての死なのだから、「しょうがねぇなぁ」という気がしているんだ。でも、他の生き物が意味もなく絶滅してしまったり、人間のエゴで地球そのものが死んでしまうような事態には、がまんがならないんだ。もっと、みんな「いのちについて」考えるべきなんだ。

この本では、俺がこれまで生き物のいのちについて考えてきたこと、自分の死を見つめて新たに考えはじめたことについて話してみた。なにしろ、入退院を繰り返し、抗ガン剤で体調は最悪、ときには心肺停止から回復した状況のなかで話を進めたので、筋道があっちへ飛んだりこっちへ飛んだりしてるかもしれないが、そこはどうぞご勘弁を。

でも、話は飛んでも、俺が一貫して考えていることにはブレはない。そこを汲み取ってもらえればと願っている。

そしてこの本が、ひとりでも多くの人に、いのちについて、地球について考えるきっかけとなれば、俺は本当にうれしいんだ。

(「はじめに」より)

高村光太郎「造形」2012/03/17

高村光太郎「造形」

昨日、吉本隆明さんが亡くなったそうだ。「共同幻想論」の頃は私は中学生だから、高校になって背伸びして読んだとしてもただ活字を追いかけただけで何も残っていないのに等しい。真崎守の「共犯幻想」のほうが記憶の片隅に残っている。

さがすと私が彫刻を勉強し始めた頃に買った春秋社刊の「高村光太郎-造形」があった。光太郎の彫刻から装丁画まで文学以外の作品を網羅した本で吉本隆明と盟友北川太一の編集による。で、吉本隆明が一文を寄せていて、題して「彫刻のわからなさ」である。

「像をつくることは、世界をつくることになる。なぜそうまでして、硬い素材で、世界を造り出さなければならないのか。」と問う。そして最後までわからないと語り続ける。

文筆の世界で知の巨人といわれても、やはり机上からではモノが立ち上がる気配とか存在、実在といった感覚には共感できないものなのか。

風化する光と影2012/03/16

風化する光と影

マスメディアにあふれる希望、絆、頑張り、そんな陽のイメージの陰にあるもの。できれば知りたくない、忘れたい現実、記憶。もちろんそれだけではないけれど、フリージャーナリスト達がマスメディアがあまり伝えない震災の様々な側面を現場から掘り起こす良質のレポート。

風化する光と影-MYWAY MOOK マイウェイ出版

猫の爪書店2011/09/07

「ねこトンビ」にしじまちはる

何度か紹介してきた(→http://dek.asablo.jp/blog/2010/05/01/5184486) 工房同期の西島千春さんから久々のメール。

書店開店とのこと!といっても電子書店、電子書籍の話題は聞いていたがこれは確かに持たざるものに可能性を感じさせる新しいメディアだ。

「猫の爪書店→http://nekonotsume.wook.jp/」 ラインナップは愛猫への思いから描いた絵本「ねこトンビ」にしじまちはる。覚えている人も多いと思うけれど衝撃的だった光琳の「紅白梅図屏風」の金箔をめぐる問題を小説にした「輝線」林 耕太郎。と、2冊だけど2冊あわせて800円。さっそく購入しました。

ぜひ覗いてみてください。→http://nekonotsume.wook.jp/

「逝きし世の面影」渡辺京二2009/09/28

福岡の葦書房刊の本書を兄の蔵書で見つけた。けっこう話題になって読みたかったが、ちょっと値が張って手が出なかった。(しばらく絶版になっていたが平凡社ライブラリーから再版されたようだ)

500ページ近い大部だが、一気に読みきった。江戸末期から明治にいたる外国人による日本滞在記、旅行記、紀行文をしらみつぶしに調べ、明治以前にあった「文明」(「文化」ではない)を浮かび上がらせようという労作。

けっこう声に出して笑ってしまうようなところがある。ひとつをあげれば隅田川両岸の気性の荒い人足や船頭たちはその争いを最後は橋の上での綱引きで決着するというのだ。しかも綱が切れたりすれば双方大笑して酒を飲み交わす。

けっして豊かではないが、生き生きとして、好奇心旺盛で、なんにでも楽しみを見出すような、また質素だが日用品ひとつをとっても洗練された暮らしぶりが活写されている。

記録者自身がこの幸福な島に西洋文明を持ち込むことによって起こる行く末を案じるほどなのだ。そしてそれは失われた。相変わらず聞こえてくる日本を取り戻そうとか、自虐史観を改めよというような声がよりどころにする価値観がほとんど列強に対抗していく富国強兵(日清戦争、日露戦争)を背景に生れたといっても過言ではないだろう。それはこの本に描かれた文明とは異質なものだ。

だがここに書きとめられた庶民の姿から、日本人の政治的無関心、ミーハー的性向もみえる。食うにたいして困らなければお上のことは知らぬ。火事や天変地異も運命、嘆いても始まらぬ。ある意味したたか。しかし、これは権力が日常生活、民事にほとんど介入しなかった。小さなコミュニティの自治がある程度確立していた。仕事などの裁量がかなり個人に任されていたからだともいえる。

この二点は現在を考えてもけっこう問題だろう。最近のお上の失政のひとつ平成の大合併、自治体の最小単位は小さければ小さいほどよいのだ。合併してよかったという話を聞いたことがない。それと労働から個人が裁量できる部分がどんどん少なくなっていったということだろう。

ただの昔を懐かしむといった本ではない。現在を逆に見てみるといろんなことが見えてくる。手に入りやすくなったようなのでおすすめです。

「逝きし世の面影」渡辺京二 平凡社ライブラリー

「露の身ながら」2008/10/08

9月末から亡くなった父の納骨、そのほかのさまざまな手続き、事務的な処理のために熊本に帰省した。あらゆることに戸籍謄本、印鑑、印鑑証明と書類の束がついて回る。これはもっと単純に判りやすくならないのだろうか、戸籍制度がなく、印鑑もない諸外国ではどういうシステムになっているのだろうか。

それにしても結婚する前の戸籍にはあちこち引っ越して住民票を移した記録がすべて残されているのには驚いた。父の原籍である祖父の戸籍の最初の記述は曽祖父が結婚した明治40年、ちょうど100年前である。ある意味日本的統治のシステムを戦前から引き継いだ巨大なデータベースが官吏の手で維持されているわけだ。

これは自分のルーツ探しには役立つかも知れないが、果たして権力がこれを握っているというのは少し怖い気もする。法的には保護されているのだろうが。

閑話休題。母が散髪をしたいというので実家の近くの巨大ショッピングモールにある千円床屋に行く。母一人ではそこに出かけるにもタクシーを利用するしかない。母が散髪をしている間、「ツタヤ」で文庫本の棚を物色していると「多田富雄」の名があったので手に取ると柳澤桂子さんという遺伝学者との往復書簡「いのちへの対話」と副題のついた「露の身ながら」(集英社文庫)という一冊。

多田富雄さんの名と著書は過去にあらゆるところで見聞きしていたし、数年前脳梗塞で半身不随、声もうしなったにもかかわらず、執筆、新作能を書かれ、またその体験から弱者切捨ての医療、保険行政を告発される姿を知りながら読んだことがなかった。柳沢桂子さんについてはよく知らなかったが世界に先駆けるような遺伝子の研究者でありながら40年余り難病と闘っているという。このお二人が1年半にわたってゆっくりと対話する。

買って帰るとまず母が読み始めて、読みたいから置いていけという。読み終わって送ってもらえばいいのだが結局帰る前にもう一冊購入(こんな本を2冊在庫しているツタヤもばかにしたものではない)。

このお二人について本業についての著作に触れもせずに往復書簡から読み始めるのもひとつの出会いだろう。 と、昨夜ここまで書いたら今朝の朝日文化面に小林秀雄賞を受賞した多田富雄さんが写真入りで紹介されていた。受賞対象は「寡黙なる巨人」(集英社)

さて「露の身ながら」にもどると、互いに病身の恐怖と絶望にさいなまれる日常を語りながら、話は遺伝子から、戦争、芸術、信仰、教育と縦横無尽。ドーキンスの唱えた利己的な遺伝子、つまり人間はDNAの乗り物というのに対してDNAが人間の乗り物なのだと語る。そうなのだと気持ちがすっと上を向く。

「ゲノムも人権も、両方とも普遍性と多様性に特徴づけられています。人間のゲノムも、人種や肌の色にかかわらず普遍的に同じ構成を持っています。また一人一人個別性があるのは、ゲノムの多様性によるものです。」

人権を発見したことだけは数少ない人間の進歩であり、「ゲノムは人権そのものと言っていい。(略) クローン人間は平気でゲノムの掟を破っている。配偶子で作られるべき固有性を奪っている。」

暴走する科学への怒りも深い。そんな専門的な見識に裏付けられた生命への洞察が自身の病と重ねられ読む者を勇気づけてくれる。

偶然に見つけた本だったが、身近に闘病や介護の現実に少なからず向き合うようになった私には心身に染み入るような一冊だった。