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「三池」終わらない炭鉱(やま)の物語2012/11/07

 ある映画の情報を探そうとポレポレ東中野のホームページを見ていたら熊谷博子監督の「三池」終わらない炭鉱(やま)の物語が1週間だけアンコール上映されている。6年前に見そびれていてこれは行かぬわけにはいかない。

三池-終わらない炭鉱(やま)の物語

 前後の脈絡もなく眼に焼きついた風景というか情景というものがある。1959年から60年にかけて父が熊本の北辺、福岡県大牟田市に隣接する荒尾市に単身赴任していたことがある。まだ5歳か6歳だった私の目に焼きついているのは高架の単線の鉄路を渡っていくトロッコの列だ。逆光でシルエットで見たような気がするのだが、荒尾は大牟田の南なので逆光というのは私が勝手に作り上げた記憶かもしれない。

 まさに総資本対総労働といわれた三井三池争議の時期だったが幼稚園児の知る由もない。それでも父が買ってきた土門拳の「筑豊のこどもたち」は衝撃的だった。意識して見たのは小学生になってからだろうけどザラ紙に刷られた100円の写真集はこれも私の眼に焼きついている。また家の座敷には三池の組合が資金源として作っていたサルスベリの太く大きなパイプがおいてあった。

土門拳「筑豊のこどもたち」

 映画ではその三池炭鉱の歴史を丁寧にたどっていく。そこには戦争、国家、資源、資本、労働運動、差別といわば近代の負の縮図があぶりだされる。救われるのは現場にいた(いる)人たちに寄り添っていくようなインタビューが図式的な対立を超えた言葉では表しがたい人間の力を見せてくれるからだ。1963年の458人の死者と一酸化炭素中毒患者839人を出した炭塵爆発事故などを経て三池炭鉱は1997年に閉山した。CO中毒患者と家族は今も苦しんでいる。それでも生き抜いてきたお母ちゃんたちの姿がまぶしい。

 私が社会的な問題を意識するようになったときには水俣病やベトナム戦争が目の前にあって、福岡事件の再審運動にかかわっていても三池はすぐ隣だったにもかかわらず、上野英信さんの筑豊の本や菊畑茂久馬さんを通じて山本作兵衛さんの絵を知るくらいでなんとなく炭鉱のことは私の頭の中では霞がかかっていた。

 映画の中に生活のために第二組合を設立する、つまりスト破りの話が語られるが、私の父はレッドパージを潜り抜けて組合上がりで管理職になっていたのでそれなりの葛藤があったのだろうと思う。三井三池のことは他人事ではなかったのかもしれない。そのへんの事を今になって父に聞いてみたいと思うがそれもかなわない。

 それでもこの映画を見て私の頭の中の霞はだいぶ晴れた。近代が近代であるためにいかなるエネルギーを喰らってきたのか、エネルギーの確保と転換の国策、そこにある差別と棄民の構造が水俣にも沖縄にも福島にも通底すること。それはそのまま現在の非正規労働者や、貧困の問題であり原発の下請け労働者の問題でもある。そして3.11の後の世界の何を見なければならないのか、何を選び取るのか、どんな道を進むのかそのベクトルを示している。

 私は今現在の時代の前景をひとつの炭鉱を切り口に見せてくれるこの映画をぜひ皆さんにも見てほしいと思う。神奈川、大阪、広島、福島と上映が続くそうです。

 上映後、熊谷監督と鎌田慧さんのトークがあり、上映会を訪ねてきた行き場なく福島第1原発の下請けに入ったものの解雇された若者の話、与論島から三池に入った人たちへの差別など炭鉱(やま)の物語が今につながることをあらためて思う。それから20人ほどで監督と鎌田さんを囲んでお茶会があり、中には実際に三池で落盤にあったという人もいて密度の濃い時間を過ごすことができた。いまだこの国の地下には300年くらいはエネルギーをまかなえる量の石炭が眠っているそうだ。

電気と生活2011/07/03

今、家にある日常使っている電気製品をあげてみると、冷蔵庫、炊飯器、照明機器、洗濯機、テレビ、DVDビデオデッキ、パソコンと周辺機器、コンポーネントステレオ、扇風機、FAX電話、掃除機、コタツ、トースターくらいか、あとガスの風呂釜も電気がないと動かない。台所はガステーブルと電池がいる瞬間湯沸し器でプロパンだし、暖房は反射式の石油ストーブで電気はいらない。暖房便座もない。

充電したり電池が必要な小物と仕事に使う溶接機や電気工具類を別にするとこんなものだ。家で仕事をするようになって契約容量を溶接機に合わせて60Aにしたが(それでもMAXで使うとブレーカーが飛ぶ)それまでは15Aだった。それであまり困った覚えはない。

だいたいの人はエアコンと、電子レンジがないというとびっくりする。つれがエアコンに弱いのと電磁波で食べ物を加熱することにいまだになじめないだけの話なのだが。

いつの頃からか電気がなくても生きていけるようにしておきたいと思って暮らしてきた。いざというときに食べ物や燃料はぎりぎり何とかなりそうな気がするけれど電気は簡単ではない。おまじないのように我が家の電話回線には黒電話がつないである。

高度にシステム化された社会は危ういものに見えて、電話も携帯も回りに懇願されるまで使わなかった。たぶん水俣病、公害の蔓延、高校生の頃出会ったヒッピーと呼ばれる人達。そんなことがないまぜになっての青臭い反抗心だったのかもしれないが方向性はそんなに間違ってなかったのではないかと思っている。

自動ドアにも違和感を感じたし(だいたいの人は自分で扉ぐらい開けられる)、エアコンを前提とした建物を作ってエアコンなしでは夏を越せないといいながら、中を冷やした分の熱とそこで消費するエネルギーの熱を外に出し続けてヒートアイランドだ、温暖化だなんて言って、挙句に省エネ、節電ってわけがわかりません。

昨年実家の改築のために行った住宅設備のショールームで人が近づくと口を開ける便座が並ぶ風景をを見た時には絶句した。これって人間の退化でしょう。電気仕掛けの便座自体いやで、自分のケツぐらい自分で拭けとおじさんは思うのだ。

前にも書いたけれど私が物心ついた頃、電気は電灯だけだった。電力会社の契約種別に従量電灯とあるのはその頃の名残だ。現在の利便性を後退させるのはむつかしいと言う人がいるけれど、ヒトという生体の能力をその利便性が退化させているとすればノンプラグドの方がクールだぜ!

10の日デモ2008/03/13

小田実といえば「ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)」なのだが、福岡では10の日デモといって毎月10日に反戦デモをやっていた。兄の影響で私もよく出かけていった。まだ中学生だったが精一杯背伸びしておじさんや、おばさん、学生の後をついて歩いていた。

その10の日デモの責任者で福岡ベ平連事務局長だったのが石崎昭哲氏である。小田実関係で検索をかけていたら吉川勇一氏のホームページでその石崎さんが昨年亡くなっていたのを知った。

高校生になって顔をさらしてのデモはなかなか抵抗があるし、大学生のまねをしてヘルメットにタオルのデモじゃあるまいしと、ペーパーバックデモというのをやったことがある。けっこうな人数が集まった。スーパーの大き目の紙袋(その頃はレジ袋などなかったのだ)眼のところだけ穴を開けてかぶり、そのかわり学校の制服を着てデモンストレーションしようというわけだ。そんなときも石崎さんは何も言わずに見守ってくれていた。

そんなことばかりしていたので1年で高校を放校処分となり福岡を離れたのでそれからお会いする機会もついになかった。訃報に接して40年近く前のことが脈絡なく脳裏に浮かぶ。警固公園、岩田屋前の歩道。サヨクの人のなかにはベ平連は集会とデモしかやらないじゃないかと批判する人もいたが、だから中学生も、高校生も一緒に歩くことができた。パリの和平会議をへてベトナム戦争が終結したときには世界中でデモをした普通のおじさんやおばさんや学生たちがそこに参加したという気持ちを共有できたことを忘れないでおこう。

以下は吉川勇一さんが書いた朝日新聞社編『現代人物事典』(朝日新聞社 1977年刊)に掲載されている石崎昭哲さんの紹介です。心よりご冥福をお祈りします。

「福岡の市民運動の中心的存在。1928(昭和3)年10月26日,山口市生まれ。70年に始めたオフセット印刷所は,旧福岡べ平連の事務所をはじめ、金大中,金芝河救援運動や自主映画上映、音楽会など、さまざまな市民運動の連絡先になっている。旧制山口中学校卒業後,江田島の海軍兵学校に入るが、4ヵ月で敗戦,旧制山口高校より九大工学部入学、55年に中退。68年1月、佐世保に米原子力空母エンターフライズ号が入港した際、福岡「10の日デモ」に加わることから反戦市民運動に全面的に参加,福岡べ平連(68年5月発足)の事務局長となる。以来,印刷業を続けながら「10の日デモ」をはじめ、多くのデモの届け出責任者となり、おそらくその回数では全国一かもしれぬという。福岡の運動のかなめとなる中年ながら、「官僚」やカリスマにならず,多くの若者たちとともにビラはりなどもいとわない。生活に根ざした草の根的運動者。3男2女の父親。」

廃仏毀釈-取り返しのつかないもの2007/08/20

坊津一乗院は1869年(明治2年)に廃寺、跡形もなく取り壊されてしまう。今からは想像もつかないが「神仏分離令」といわれる一片の明治維新政府の通達で、全国の数限りない寺院が破壊された。それに抵抗した奈良東大寺に対して、五重塔を売りに出したといわれる興福寺の荒廃は140年後の今訪ねてもうかがい知ることができる。廃仏毀釈という。

江戸までの日本は神仏習合、神仏混淆であり、社寺が同居するのは常態だった。大陸からやってきた仏教を先人は本地垂迹説なるこじつけ(笑)までして受容し、普遍してきた。歴代天皇も深く仏教に帰依している。

王政復古の名の下に「神仏分離令」が出されたのは「五ケ条の御誓文」の発表とほとんど同時である。まだ明治政府が政府の体をなしていない時期だ。その背景は複雑だが天皇の神格化、国家神道の成立に深くかかわるものであることは疑いない。尊王、王政復古の先鋒であったからか薩摩藩では徹底して寺院1616寺が廃寺され、還俗した僧侶は2966人にのぼり、その多くは軍属として強兵にあてられたという。

松岡正剛が宮崎の僧侶佐伯恵達の『廃仏毀釈百年』を取り上げて『明治維新における「神仏分離」と「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)の断行は、取り返しのつかないほどの失敗だった。いや、失敗というよりも「大きな過ち」といったほうがいいだろう。日本を読みまちがえたとしか思えない。「日本という方法」をまちがえたミスリードだった。』と書き始め、その背景ともたらしたものを語っている。

靖国をめぐる言説も、古きよき日本を語るにせよ、明治以前と以後の断層を考えなければ見えてこないものがある。私が日本の彫刻を考え美術を考えるときもそこに浮かび上がるのは、明治という時代が否応なく身に孕んだ錯誤の感覚だ。

坊津一乗院の跡は坊泊小学校となっている。輝津館から山側に登ると小学校の上に出る。歴代上人の墓や五輪塔の間を下り、校舎の間を抜けて校庭に出ると校門の脇に村人が建て直したといわれる石造の仁王がある。かろうじて上半身がコンクリートの上に据えられている。画像は顔立ちもはっきりしているほうの一体。今は校庭に遊ぶ子供たちを静かに見守っている。

消えた寺-坊津一乗院2007/08/20

枕崎から西に行くと、丘の上に風力発電の風車が立ち並び、やがて坊津の小さな入り江に道は下っていく。小学生の頃ここを訪れたとき、入り江の岩場に建てられた屋敷の下に船が寄せられるようになっており、鎖国の頃の密貿易のなごりだと聞いて、その密貿易という言葉の響きに心躍らせ、坊津は忘れられぬ場所となった。

およそ40年ぶりに訪れてもその佇まいはそんなに変わっていないように見える。歴史資料センター輝津館の看板を見つけて訪ねると、やはりこの小さな入り江が大きくアジアに向かって開かれていたのがよくわかる。

なかに一乗院という日羅創建の伝説もある真言宗寺院が取り上げられている。鎌倉末と伝えられる絹本着色八相涅槃図からその寺勢の大きさがうかがえる。薩摩藩各地に末寺を持つ藩内屈指の有力寺院だったが今は跡形もないという。石塔や石造の仁王像が残っているというので訪ねてみることにする。

猛暑!!お見舞い申し上げます2007/08/15

暑い!このところブログ更新なんてやってらんねーよというくらい暑い(言い訳ですが)。毎日今日が一番暑いといっていたら、今日は温室状態の仕事場は軽く40度を突破。パソコンの置いてある居間も38度になった。現在34度。

エアコンなんてなかったころは(ウチは今でもないけど、原発いらねえって言ってんだから。もちろん電子レンジもない。)親父はステテコ一枚で濡れタオルを肩にかけていたし、母もほとんどシュミーズ姿のときもあったような。腰巻だけでおっぱい丸出しのばーちゃんもいたよななどと思いつつ、扇風機の登場はテレビより遅かったが、冷蔵庫の登場がいつだったか思い出せない。小学生のとき冷蔵庫がある家と話題になったのは木製で内側にトタンが張ってあって一番上の棚に氷を入れておくタイプだった。

熊本だから内陸で夏は蒸し暑く、冬は底冷えがした。不思議と夏の暑さの記憶より冬の寒さの記憶のほうが身にしみている。だから扇風機より石油ストーブの登場ほうが印象的だった。たぶん暑さをしのぐより寒さのほうが身にこたえるということだろう。

鋳造なんかやってて1200度の世界ともつきあってたから暑さには強いつもりだけど、石油ストーブと書いただけで暑くなった。おやすみなさい。寝れそうにもないけれど。

レイテ島2006/08/16

昨年の8月に会えなかった叔父について書いた。昨年から田舎の墓を整理することになって、埋葬者を調べて父の3歳年下(大正8年生)の叔父がレイテ島で戦死したことを知った。私と誕生日が同じこともあり気になったが、祖父の書き残したものが少しあるだけでその詳細はわからない。

祖父の記録によれば「昭和17年23歳で臨時召集、19年5月フィリッピンに出征。陸軍第102師団工兵隊軍曹として20年6月30日レイテ島西岸方面の戦闘に於いて玉砕戦死。享年27歳(数え)。22年7月戦死公報あり。同8月遺骨帰還」「昭和30年4月靖国神社に合祀せらる」とある。

19年といえば、もうサイパン、本土空襲と敗色も濃厚となるころだ。叔父はどんな思いで戦地に赴いたのか、家族はどんな思いで見送ったのか。今は知るすべもない。

102師団を手がかりに調べると19年6月15日に熊本からの補充兵で現地で編成されている。師団長は福栄真平中将。10月24日のレイテ海戦の直後にレイテ島に渡っている。その戦況は悲惨なものだったらしい。最後は福栄中将が兵を置き去りにして自分だけレイテ島を脱出しており(指揮権剥奪処分、後に戦犯として銃殺)、残された兵は脱出する手段もなく米軍の猛攻にさらされている。20年3月には組織的な戦闘は不能になったとある。

叔父の玉砕戦死した20年6月30日という日付も疑わしいものだ。果たして帰還した遺骨はあったのかそれも定かではない。レイテ島での戦死者8万4千人、陸海軍の死者総数約240万人の内、餓死者が7割を占めるという。

昨日は靖国、靖国とお祭り騒ぎだったが、小泉純一郎の功罪において、功は戦争責任についてもう一度日本人が考えざるおえないことを明らかにしたことか。

そのためには、身近な人間から考えるのがひとつの手がかりとなるかもしれない。残念ながら叔父を直接知っていて語れる人はもういない。今週末に帰省するが母に戦死公報や遺骨帰還について記憶を訊ねてみよう。母が結婚1年後、22歳の頃の話だが。

もし身近に戦争の体験者がいるならばどんなことでもいいから、聞いて記録しておきたい。今を逃せばもう決して聞くことができないから。改めて父に聞いておくべきだったと思う。

一本道2006/08/07

お茶屋の旦那からBSでだいぶ前に放送された「陽水30年同窓会」のビデオを借りてきて見る。井上陽水「傘がない」、小室等「雨が空から降れば」、高田渡「生活の柄」、三上寛「夢は夜開く」、加川良「教訓Ⅰ」、友部正人「一本道」。

ごめんなさい。おじさんは涙腺までゆるめて一緒に歌ってしまうのです。これにエノケンこと遠藤賢治と斎藤哲夫を加えたら完璧デス。このへんなおじさんたちはたぶん「自分の詩を歌って生きてりゃいいさ」ってことをティーンエイジャー(最近聞かない言葉)だった私に教えてくれた。

むちゃくちゃでも信じたことをマジでやってりゃいいんだ。小利口より馬鹿なほうがいい。けっこうそのまま生きてきたような。友部の「一本道」は東京に出てきて阿佐ヶ谷に住んだこともあって、思い入れ深すぎ。これが納められたアルバム「にんじん」のジャケットの顔は阿佐ヶ谷駅前のよく通った屋台のおやじだ。

加川良の「教訓Ⅰ」。「命はひとつ、人生は一回」ではじまるこの曲は、生きてりゃいいのよ、お国なんて言葉がでたときにゃ、「 青くなって しりごみなさい 逃げなさい 隠れなさい」と歌う。ん~、浅田彰も堀井憲一郎も先取りされてる。「逃げろ!」

NHKスペシャル硫黄島を見る。生き残った兵士が「戦友の死を無意味とは言いたくない。しかし意味を問われればむずかしい。」。ニュース23「緒方貞子」、20世紀最後の虐殺、ルワンダ

レバノンの死者千人を越す。私達はそこから逃げ出せるのだろうか。

伊丹万作「戦争責任者の問題」2005/12/13

「読んでください」というメールをいただいた。「今、どうしたらいいのか分からないので...」と、伊丹万作が敗戦翌年の1946(昭和21)年に書いた文章を「ぜひ、御一読を」とある。

伊丹万作「戦争責任者の問題」

http://www.ribbon-project.jp/book/itami.html http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/itami_mansaku.html

見ると敗戦の翌年、病床で書かれ、同年没だから、最後の言葉と言ってもよいのかもしれない。

「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」 「『だまされていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。」 そして、これを単に政治問題として扱うことの限界を示している。

著作権は切れているので以下に全文を引く。「ぜひ御一読を」

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最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。

そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。

さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると 思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直 ぐにわかることである。

たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。

少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。

いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。

しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。

そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。

いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。

もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。

しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。

ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最小限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。

もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。

だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。

また、もう一つの別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。

つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。

そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。

こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。

しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。

すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。

しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりとしているのである。

いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。

しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。

たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつた り、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。

もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。この馬鹿正直をわらう人はわらうがいい。

このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。

では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである。

では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。

私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。

昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画人集団発起人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。

そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。

「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」

つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。

しからば私のほうには全然言い分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。

なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。

しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。

要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。

それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する破目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである。

最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。

「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、 昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います。

ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。

そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります。

しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疏通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。

なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。

では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)

(『映画春秋』創刊号 昭和二十一年八月)『伊丹万作全集1』 筑間書房 p.205-214

伊丹万作    1900年1月2日生。1946年9月21日没。

イスラ・ムへーレス2005/11/30

日本の建築、建設や、それに限らずだが先日も書いた期日厳守、目標を立てたら手段を選ばぬような仕事のあり様をよしとする気風に触れるたびに思い出すのはイスラ・ムヘーレスという小さな島のことだ。

もう25年も前にアメリカからメキシコを貧乏旅行してたどり着いたカリブ海に向かって突き出すユカタン半島の端っこの島。高級リゾートカンクンの近くだがこちらは貧乏旅行者専門だった。日本人もいて毎日情報を交換しながらなんとか陸伝いに南米行きを考えるものもいた。グァテマラではまだゲリラが盛んに活動していた時期だ。なぜか後輩とばったり出会い(スペイン語を話す日本人と英語を話すドイツ人というわけのわからない二人組だった。私が通訳をした。)、海パンを借りてひがなやしの木陰の砂浜に寝そべっていた。

島の岬に建設中の三角形のホテルがちょうど正面に見える。見ているとその三角形の長辺、斜めになっているところを人が寄ってたかって大きなタンクのようなものをあげようとしている。たぶん水のタンクだろう。それが中ほどまであがって身動き取れなくなって下におろされる。あくる日は三分の二くらいまであがってまたおろされる。なにか引っ張る機械を調達してくるでもなく、私の滞在した5日ほどの間ついにタンクが屋上にあがることはなかった。

そこには違う時間が流れていて、なんだかずっとそこにいてもいいような気持ちになったし、タンクは永遠に屋上にたどり着かないし、それでも誰も困っていないように思えた。効率とか、合理性などという言葉がまるでないような。アスタマニャーニャ。

イスラムへーレスというのは女の島という意味だそうだ。この旅の途中で腕時計が壊れて、それ以来私は時計を持っていない。